たまにブログで書いているのですが、わたしの母親はアニメーターでした。
終戦の年生まれのわたしの母世代がアニメ描いてたっていうのは、かなりレアだと思いません?
もう亡くなってしまいこの世にはいない母ではありますが。
まだアニメが黎明期だった頃。
今日はちょっとそんなアニメーターだった母の小さなお話しから。
東京の女子美短大を卒業というのに仕事先が決まっていなかった母。
美術の教員の資格はとったものの、教壇に立つだけで真っ赤になったというのだから、まあ性分に合わなかったのでしょう。
仕事が決まらない……どうしよう……というとき、永沢先生という方に、「今度新しくアニメの会社を作るんだけど、来ない?」と誘われて入ったのだそう。
スタジオユニという会社です。
今でもアニメを見ていると、たまにその名前を見つけることができます。
スタジオユニに入社してからは毎日必死で絵を描いてたようで……締め切りが近くなると家に持って帰り、弟を巻き込んで仕上げていきました。(ここは弟であるわたしの叔父談。今は鬼の社長と呼ばれるイカつい顔した叔父が、姉にこき使われてるところを想像すると笑えますww)
仕事の役割は動画のコマ割りとか地味な1番下っ端な作業を主に担当していました。一度は原画をやったらしいけど、酷かったらしいです。
いろいろ制作したアニメ作品の名前を聞いたけど、唯一分かったのはおそ松くんでした。1番初めのの『おそ松くん』をリアルで描いてたっていうんですからね。古いなあ。
その後結婚してアニメーターは辞めちゃいました。
結婚生活は夫と折り合いがあわず、とても幸せとは言えないものでしたが、わたしが小さい頃、服にハイジの絵を描いてくれたりして、嬉しかったのを覚えています。
アニメ仲間からの年賀状を見せて物語ってくれたり、アニメの描き方を教えてくれたり、その時の母はとても嬉しそうでした。
だからってわけではありませんが。
今、アニメのシナリオの仕事などをやっていると、母の存在を感じるんですね。
(ペライチのホームページサポートの他に、アニメのシナリオライターなんていう仕事をもらっています)
特に母を意識して選んだ仕事ではなく、自然とそんな流れになったのです。
でも。
今になってふと、母の後押しがあるのではないかと思ったのでした。
母はわたしが小6のとき、わたしたち姉弟を連れて家を出ます。
お嬢さん育ちでおとなしい母が、シングルで世間の荒波の中やっていくのは大変なことでした。
女性が働くことの大変さをずっと間近で見てきましたので、働く女性や子どものサポートができたらな、という想いを持っています。
この先、5年後。
なんらかのカタチにしていけたらな。と密かに企んでいます。どこまでできるかわかりませんが、これからもチャレンジしていきます。
ふふふふふ……ニヤリ。
……なんちゅう終わり方や